2015年
4月
05日
日
音楽(洋楽Rock & Pops)の話をする時、絶対に外す事ができないキーワードが「リヴァプール・サウンド」だよね。
いまさら説明の必要は無いかもしれないけど・・・・、「リヴァプール・サウンド」とは、Beatlesを中心に1960年代前半イギリスに興った音楽のジャンル。
ロックンロールやドゥー・ワップ、R&B、ソウル・ミュージックなど様々な既成の音楽が融合し進化してできた音楽です。
何故、「リヴァプール」なのかというか、このムームベントの中心にいたBeatlesの出身がリヴァプールだから・・・。
でも、この「リヴァプール・サウンド」と言う言葉は、日本独自の呼称で、本国イギリスでは、「マージー・ビート」や「ブリティッシュビート」などと呼んでいます。
当ブログでは、「リヴァプール・サウンド」で行きたいと思います。
1964年にBeatlesが、米国のTV番組「エド・サリバン・ショー」に出演し大成功を収めたのが始まり。
Beatlesの成功を機に、イギリス各地のバンドが次々とアメリカのミュージック界に進出。
1964年~1965年にかけて、ビルボード・ヒットチャートの約半分がイギリスのバンドで占められるという現象が起きました。
この現象をアメリカの音楽業界は、ブリティッシュ・インヴェイジョン(イギリスの侵略)と呼んでいます。
ブリティッシュ・インヴェイジョンは、その後のアメリカのフォーク・ロックやガレージ・ロック、パンクなどに大きな影響を与えていきます。
何故このような状況が生まれたかというと・・・・・・、アメリカではこれまで活躍してきたロックンロールのスター達が事故死や麻薬等のスキャンダルで姿を消していき、新しいスターの登場を待ち望んでいたから・・・。
アメリカのトップスターだったエルヴィス・プレスリーは徴兵後以前の輝きを失い、リッチー・ヴァレンス(Ritchie Valens)やバディ・ホリー(Buddy Holly)、ビッグ・ボッパー(Big Bopper)の乗ったチャーター機がアイオワ州で墜落死亡等々。
上記の状況をドン・マクリーンが1971年に発表した「American Pie」で歌っているのは有名な話ですよね。
歌詞中の「February made me shiver」とは、1959年2月3日未明にアイオワ州で墜落した飛行機事故のこと。
曲中でこの日のことを「音楽(ロックン・ロール)が死んだ日/The Day the Music Died」と繰り返して歌っています。
この曲は、演奏時間が8分36秒にもかかわらず、ビルボード.シングルチャートで1972年1月15日より4週間No,1の座に・・・・、1972年年間ランキングでは第3位を記録しています。
2000年3月にマドンナがカバーしていますので、若いお客様からのリクエストも増えています
とにかくBeatlesは凄かった・・・・、その影響力は世界中に波及。
世界各地で熱狂的なバンドブームが起き、日本でもいくつかのGS(グループサウンズ)が生まれましたよね。
しかし、このブリティッシュ・インヴェイジョンも1966年頃には勢いをなくしていきます。
このムーブメントで生き残ったバンドは、サイケやプログレ、またブルース・ロック等独自の方向へ進化していき、1967年頃にはブリティッシュ・インヴェイジョンも終焉を迎えます。
ロックを語る上でこの2年間のブリティッシュ・インヴェイジョンは避けて通ることができませんよね!
この2年間は、とても熱い時代でした。
この熱い時代をリアルタイムにイギリスのロックを体で感じられたのは本当に幸せだと思っています。
団塊世代にこの2年間を語らせると・・・・・チョット、うるさいですよ!!(笑)
この後の世代は、日本のGSにうるさいです・・・・。
冗談はさておき、この「リヴァプール・サウンド」を担ったバンドをどんどんご紹介していきますね。
BeatlesとRolling Stonesは、後日改めてご紹介します。
第1回は個人的に大好きなバンドです。
このバンドは、UKチャートにおいて5週連続1位だったBeatlesの「I Want to Hold Your Hand/邦題:抱きしめたい」を蹴落としNo,1に躍り出たバンド。
また、Beatlesに続いてアメリカのカーネギーホールでコンサートを開いた実力在るバンドです。
お楽しみに!!
● Rolling Stone誌が2012年に実施した「読者が選ぶ~キミ達の好きなブリティッシュ・インヴェイジョン・ソングBest10」
1位 |
Rolling Stones |
( I Can't Get No) Satisfaction |
2位 |
Beatles |
I Want to Hold Your Hand |
3位 |
Who |
My Generation |
4位 |
Kinks |
You Really Got Me |
5位 |
Beatles |
She Loves You |
6位 |
Animals |
The House of the Rising Sun |
7位 |
Rolling Stones |
Paint It Black |
8位 |
Kinks |
All Day and All of the Night |
9位 |
Zombies |
She's Not There |
10位 |
Who |
I Can See For Miles |
2015年
4月
06日
月
米国のTV番組「エド・サリバン・ショー」に出演し大成功を収めたBeatles。
本国UKチャートにおいても「I Want to Hold Your Hand/邦題:抱きしめたい」が5週連続1位を驀進中!!
日本でも大ヒットでしたよね!!
当時、中学生だった僕は・・・・・、もう大興奮!!
ところが・・・、ところがです・・・、そんな凄いBeatlesの曲を蹴落としたバンドがいることを知ってびっくり・・・・・・。
ナッ、なんと言うバンドなんだ・・・・、と親に内緒で聴いていたラジオから流れてきたの
が1963年デビューしたDave Clark Fiveの「Glad All Over/邦題:グラッド・オール・オーバー」なんです・・・・。
Dave Clark Fiveは、ロンドン出身のバンド。
ドラムのデイヴ・クラークを中心に、キボード マイク・スミス、ギター レニー・デビッドソン、ベース リック・ハクスレー、 テナーサックス デニス・ペイトンのメンバーでロンドン北部の下町トッテナムで1962年に結成。
黒人音楽の影響が濃い同時代のロンドン一派とは一味違う洗練されたサウンド。
「Glad All Over」、「Do You Love Me」、「Anyway You Want It」等々大好きデ~ス!!
そんな洗練されたサウンドが、地元英国以上に米国で受け入れられ、1964年から1967年夏までは本国よりもアメリカでの人気が高かったようです。
前述のようにBeatlesの「抱きしめたい」を抜き、『Glad All Over』がUK1位に、続いて「Bits And Pieces」がUK2位になり・・・・・、ナント、ナント・・・、彼らはBeatlesより先に全米ツアーを実施しちゃっているんです・・・。
その甲斐あり1965年に「Over & Over/オーバー・アンド・オーバー」がビルボード・シングルチャートでNo.1を獲得。
ビートルズに続いて、「エド・サリバン・ショー」に出演したり、Beatlesに続いてカーネギーホールでコンサートを開くなど、アメリカでの人気が高まるばかりでした。
しかし、下記のようなヒット曲を連発していましたが・・・・・、Dave Clark Fiveの音楽性が徐々に変化しアメリカではアイドル・ポップ・バンドみたいなイメージが定着。
ビートルズの最大のライバルなんて云われた彼らも、遂に1970年に解散となってしまいました。
The Dave Clark Five は、2008年にロックの殿堂入りを果たしました。
授賞式でのプレゼンターはトム・ハンクスが務め、締めくくりとしてジョーン・ジェットが「Bits and Pieces」をカヴァーしたそうです・・・・。
●The Dave Clark 5の代表的な曲
・「Glad All Over」 / 1964年1月発表 UK1位 USA 6位
・「Bits & Pieces」 / 1964年3月発表 UK 2位 USA 4位
・「Do You Love Me」 /1964年発表 USA 11位
・Can’t You See That She‘s Mine/1964年発表 USA 4位
・「Anyway You Want It」 / 1964年発表 USA 14位
・「I Like It That」 / 1965年発表 USA 7位
・「Reelinn And Rockin’」/ 1965年3月発表 USA 7位
・「Because」 / 1965年発表 USA 3位
・「Catch Us If You Can/邦題:若さをつかもう」/1965年発表 USA 4位
・「Overe & Over」 / 1965年12月 UK 1位 USA 1位
・「Everbody Knows/邦題:青空が知っている」 / 1967年 USA 23位
・「Try Too Hard」 / 1967年発表 USA 12位
余談:
・「Glad All Over」は、Suzi Quatro、Bon Jovi、Quiet Riot等がカバーしています。
・「青空の恋」は、アイドル・グループのフォーリーブスが日本語でカヴァーしていたとか・・・・。
2015年
4月
08日
水
Beatlesの弟分としてデビューしたピーター&ゴードン。
1964年に発表されたデビュー・シングル「A World Without Love/邦題:愛なき世界」がUK及びUSAでNo.1になる大ヒットに・・・・。
ピーター&ゴードンは、ロンドン出身のPeter Asher/ピーター・アッシャーとスコットランド出身のGordon Waller/ゴードン・ウォーラーのデュオ。
二人の出会いは、イギリスのロンドンにあるウェストミンスター・スクール。
地元のLIVEハウスでレコード会社にスカウト。
この当時、Beatlesのポールが交際していたのが・・・、ナント・・・ピーターの妹で女優のジェーン・アッシャーだったんです。
妹よ、素晴らしい!!
こんな素晴らしいコネを使わない手は無い・・・。
“コネも実力のうち” と言うことで早速作ってもらったのが「A World Without Love/邦題:愛なき世界」。
これが、全米No.1曲になってしまうのですから・・・・・。
皆さんも人生の中で使えるコネがあったら全部使った方が良いですよ!!
と言うことで、デビューから3作品連続で「Lennon & McCartney」名義の作品をリリースし、トップ・アーチストになりました。
余談ですが・・・、ポールのあの名曲「イエスタディ」もジェーン・アッシャーの部屋で作ったんですって・・・・。
下世話な話で申し訳ないけど・・・・、これ有名な話です!!
ピーター&ゴードンがアメリカで受けた理由は、単にBeatlesのお陰だけではないんです。
2人の曲とコーラスが、当時アメリカのトップデュオのエヴァリー・ブラザーズ風だったの良かったようで・・・・。
そのため、アメリカの有名曲のカヴァーや他のライターの楽曲でヒットを連発します。
しかし、1967年に発表した「Lady Godiva」と「Sunday for Tea」が不発に終わり、1968年に解散してしまいます。
解散後、ピーターは、アップル・レコードのA&Rとしてアーティストマネージメントなどを行なっていたが、活動の場をアメリカのカリフォルニア州に移します。
そこで、プロデューサーとして大成功を収めます。
リンダ・ロンシュタット、ジェームス・テイラー、シェールなど70年代に多数のヒットを世に送り出し、グラミー賞も受賞。
ソニーミュージック・エンターテインメントの副社長になったとか・・・・?
一方、ゴードンはソロとして活動を続けて行きましたが、ついに表舞台に返り咲くことは無く、2009年7月17日に心臓発作でお亡くなりになります。
享年64歳。
解散後のゴードンは、あまり芳しくなかったけど・・・・、ヴァーティゴ・レーベルに残した彼のソロアルバムは最もレアで入手しづらく、現在は大変な高値で取引されているとか・・・・?
●Peter & Gordonの主なヒット曲
・「A World Without Love/邦題:愛なき世界」 1964年 UK1位 USA1位
・「Noboby I Know」(バディ・ホリーのカヴァー) USA12位/UK10位
・「True Love Ways(二人の恋は)」(バディ・ホリーのカヴァー)USA14位/UK2位
・「I Go To Pieces」(デル・シャノン作) USA9位
・「I Don't Want To See You Again(逢いたくないさ)」 USA15位
・「Woman」(ポール・マッカートニー作)
・「To Know You Is To Love You(つのる想い)」(テディ・ベアーズのカヴァー)USA24位/UK5位)、
・「Baby I'm Yours」(バーバラ・ルイスのカヴァー) UK19位
2015年
4月
14日
火
Beatlesを世に出したジョージ・マーティンとブライアン・エプスタイン。
この最強コンビがBeatlesに続いて世に出したのが、やはりリヴァプール出身のジェリー&ザ・ペースメイカーズ。
このコンビは、誰が見ても天下無敵ですよね!
この二人のコンビにより、ジェリー&ザ・ペースメイカーズは1963年のデビューシングル「恋のテクニック」から3作連続でUKチャート1位を獲得してしまうのですから・・・・。
ジェリー&ザ・ペースメイカーズは、ジェリー・マースデン(ボーカル、ギター)を中心にジェリーの兄のフレディ・マースデン(ドラムス)やレス・チャドウィック(ベース)らが加わり、地元のリヴァプールを拠点にバンド活動を行う。
その後、ビートルズやザ・サーチャーズ等と同時期にキャバーン・クラブや西ドイツのハンブルクのクラブで実力を磨き、Beatles同様大人気のバンドに・・・。
特にジェリー・マースデンの明るい笑顔と田端義夫(バタやん)風のギターを高く構えて弾くスタイルがとても評判が良かった(?)そうですよ・・・・・・。
それで、ブライアン・エプスタインがBeatlesに続いてマネージメント契約を交わし、ジョージ・マーティンがプロデューサーを担当したそうです。
1963年のデビューシングル「恋のテクニック」は、4月11日付けから3周連続で全英チャート1位となります。
この曲は、最初ビートルズ用に作られたそうですが、Beatlesが拒んだために彼らに回ってきたとか・・・・・。
その後5月にBeatlesの「From Me To You」に抜かれてしまいますが、2ndシングル「I Like It」で「From Me To You」を抜き、再び1位に上がるなど、ヒット・チャートでBeatlesと競い合う状態が続きました。
3rdシングル「You’ll Never Walk Alone/邦題:淋しくはないはず」も10月31日付けから4週連続で1位を獲得。
この曲は、元々はミュージカル「回転木馬」用に作られたようですが、この曲が地元のサッカークラブ「リヴァプールFC」の愛唱歌となり、そこから世界中のサッカーファンに知られるようになったとか・・・・。
そして、Beatlesの勢いに乗ってアメリカに進出。
「恋のテクニック」がアメリカで再発売され、ビルボードのシングルチャートで9位まで上昇。
アメリカでも大ヒットし、順風万帆にいくように見えましたが・・・・。
1964年「I'm The One」がUKチャート2位に留まり、これ以降1位になることはなくなると、バンドの勢いは弱まり、1966年10月にグループは解散してしまいます。
解散後、ジェリーは子供向け番組などの出演やザ・クラウドというバンドをくんだりしていました。
1989年にシェフィールドのヒルズボロ・スタジアムで発生した群集事故(ヒルズボロの悲劇)の際には被災者支援のために「マージー河のフェリーボート」を再レコーディングして発表。
これが、UKチャートで3週連続1位を獲得しました。。
●Gerry and the Pacemakersの代表曲
・1963年3月 How Do You Do It? / 恋のテクニック UK: 1位 / USA:9位
・1963年5月 I Like It It's Happened To Me UK:1位 / USA:17位
・1963年10月 You'll Never Walk Alone It's Alright UK:1位
・1964年1月 I'm The One You've Got What I Like UK:2位
・1964年4月 Don't Let the Sun Catch You Crying UK:6位 / USA:4位
・1964年12月 Ferry Cross the Mersey / マージー河のフェリーボート UK:8位
※1989年に再発し UK:1位
2015年
4月
21日
火
Freddie and The Dreamersは、リーダー兼ボーカル担当のフレディ・ギャリティ (Freddie Garrity)を中心にメンバー全員がマンチェスター出身のバンド。
このグループは、1962年9月12日にキャバーン・クラブでデビュー前のザ・ビートルズと競演もしているんですって・・・・。
このバンドも凄いんですよ!
デビュー1stシングルから3曲連続UKトップ3に入るという快挙を達成してしまいます。
1963年6月に1stシングル「If You Gotta Make A Fool Of Somebody/邦題:恋の傷」を発表し、いきなりUKヒット・チャートで2位を記録。
続く2ndシングル「I'm Telling You Now/邦題:好きなんだ」も2位を記録。
日本でもお馴染みの曲だよね・・・・。
3rdシングル「You Were Made For Me/邦題:君は僕の君」が3位を記録。
そして、上記3曲を含む1stアルバム「Freddie And The Dreamers/邦題:フレディとドリーマーズ登場」を1963年に発表し、UKアルバム・チャートで5位を記録。
その後、映画などにも出演していましたが、1964年、民謡蛍の光をアレンジした「I Understand」がUKで5位にを記録したのを最後に、UKではヒットに恵まれず。
しかしながら、1965年頃リーダーFreddie Garrityの両手両足を振り上げたり、ジャンプして奇声を上げるステージアクトがアメリカで馬鹿受け!!
「エド・サリヴァン・ショー」からお声もかかり、番組出演を機に「ドゥ・ザ・フレディ」が18位、「好きなんだ」が1位を、それぞれ記録しちゃいます。
でも、アメリカでのブームも長く続かず、本国イギリスに戻り活動を続けるんですが、ヒット曲は出ず・・・・・、1968年に解散してしまいました。
その後、Freddie Garrityは、子供向けの番組に出演するなどし、1976年には、新たなメンバーで新ドリーマーズを再結成します。
オーストラリアやイギリス、アメリカを廻っていたそうですが、病気のため2001年2月のコンサートをもって引退したそうです。
2006年5月19日、肺気腫にて死去。
享年69歳。
改めて、合掌!!
●Freddie and The Dreamersの当店所有アナログレコードで聞ける代表曲
1963年 If You Got To Make A Fool Of Somebody Feel So Blue 3位 UKチャート
1963年 I'm Telling You Now What Have I Done To Now? 2位
1963年 You Were Made For Me Send A Letter To Me 3位
1964年 Over You Come Back When You're Ready 13位
1964年 I Love You, Baby Don't Make To Cry 16位
1964年 Just For You Don't Do That To Me 41位
1964年 I Understand I Will 5位
1965年 A Little You Things I'd Like To Say 26位
1965年 Thou Shalt Not Steal I Don't Know 44位
2015年
4月
27日
月
日本でもビートルズ、ローリング・ストーンズに続いて人気のあるリバプール・サウンドといえばAnimalsですよね。
代表曲「朝日のあたる家」は、ひょっとしたら当時ラジオから流れてくるロックの中で一番多かったかもしれません。
Animalsは、イギリス・ニューキャッスル出身のアラン・プライス(オルガン、ピアノ)、エリック・バードン(ヴォーカル)、ヒルトン・ヴァレンタイン(ギター)、チャス・チャンドラー(ベース)、ジョン・スティール(ドラム)の5人で1963年に結成されました。
もともとはニューキャッスルで58年に結成されたアラン・プライスのコンボにエリック・バードンが参加してできたバンド。
このアニマルズの魅力は、何といってもイギリスで最も偉大な白人ブルース・シンガーの一人といわれているエリック・バードンの圧倒的な黒っぽい歌声とアラン・プライスの優れたアレンジ能力によるブルース・フィーリングに満ちたサウンドです。
1964年から65年にかけてヒット曲を量産するのですが、アラン・プライスが飛行機恐怖症のためツアーを拒否しバンドから脱退。
その後も次々とメンバーが脱退。
1966年にエリック・バードンは活動拠点をアメリカ・サンフランシスコに移し、新生アニマルズともいうべきエリック・バードン&ジ・アニマルズ名義で活動を再開。
グレイトフル・デッドやジェファーソンエアプレインなどとシスコ・サウンドの代表格になります。
その当時のヒット曲としては「サンフランシスコの夜」や「スカイ・パイロット」など。
しかし、1968年の2度目の日本公演中に解散。
その後はエリック・バードン&ウォーをはじめ、自身のバンドやソロで活動を続けますが、1975年、そして1983年にはオリジナル・メンバーで一時的にアニマルズを再結成。
そして1994年に「ロックの殿堂」入りを果たしています。
1998年頃からは再びエリック・バードン&ジ・アニマルズ名義で欧米を中心に精力的なライヴ活動を行っているそうです。
●Animalsの代表的な曲紹介
・1964年に発表されたデビュー1stシングル「Baby Let Me Take You Home」は、UK38位、USA19位に入るヒットとなりました。
・2ndシングルは、誰もが知っている「The House Of The Rising Sun/邦題:朝日のあたる家」。
もともとこの曲は、作者不明のアメリカのトラディショナル・ソングで、ボブ・ディランが1962年のデビューアルバムで取り上げています。
この当時、アニマルズはロックンロールの帝王 チャック・ベリーがイギリス公演する際の前座をやることになり、チャック・ベリーに対抗してフォークの名曲「朝日のあたる家」をブルース的な解釈にてスローでダークなアレンジで録音。
重くブルージーなエリック・バードンのシャウトと後半にボリュームを上げて盛り上がるアラン・プライスのオルガンが強烈な印象を残す名曲として誕生。
当時のシングルとしては異例の4分30秒という長さになったにもかかわらず、見事にUKチャート1位を獲得。
2ヶ月後には、USAチャートでも1位に輝きました。
・3rdシングル「I’m Cring」は、UKで8位、USAでは19位を記録。
・次の「Don’t let Me Be Misunderstood/邦題:悲しき願い」は、UKで3位 にUSAで15位を記録。
日本では尾藤イサオがカヴァーし、「♪ 誰のせいでもありゃしない、みんなオイラが悪いのさ♪」 で、大ヒットに・・・。
また、1977年サンタ・エスメラルダ ( Santa Esmeralda ) がラテン・ディスコ風にアレンジして世界的な大ヒットに!
このサンタ・エスメラルダ版は2003年の映画 「 キル・ビル vol.1 」 のサントラにも使用されています。
・「We’ve Gotta Get Out This Place/邦題:朝日のない街」は、UKで2位 にUSAで13位を記録。
この曲はヴァン・ヘイレンもカヴァーしているとか・・・・?
・1965年発表された「Bring it on home to me/邦題:悲しき叫び」は、当時、射殺されたばかりの偉大なR&Bシンガー サム・クックの名曲のカバーです。
・「Boom Boom/邦題:ブーン・ブーン」は、ジョン・リー・フッカーの曲をカヴァー。
・1968年発表「スカイパイロット」。
スカイパイロットの意味は、「従軍牧師」のことで、サイケ系の反戦歌と認識されている。この時期のメンバーとして、ザ・ポリスのギタリスト、アンディ・サマーズが在籍しています。
2015年
5月
06日
水
ブリティッシュ・インヴェイジョンの波に乗ってアメリカに渡ったロック・グループの中でも一際異色を放っていたのがZombies。
Zombiesのヒット曲は、イギリスではわずか2曲、アメリカで5曲しかないのにBeatlesのジョンもポールもZombiesをこよなく愛していたというし、Zombiesのファン・クラブの会員には、ビーチ・ボーイズやスモール・フェイセズ、プロコル・ハルム、トレメローズ、エヴァリー・ブラザーズ、ナッシュビル・ティーンズ、ヤードバーズetcのメンバー達がいたんですって!!
凄いバンドだったんですね~!!
クラッシクやジャズを好んで聴いていたというリーダーのロッド・アージェント。
彼の洗練された音楽性がとてもよかったのと、何よりも自分達の音楽のターゲットをティーンエイジャーではなく、その上の世代においていたというのが凄い。
Zombiesの美しくも優しいメロディに心地良い歌声がたまらないのです・・・・。
こんな玄人受けするZombiesは、キーボーディストのロッド・アージェントを中心に1962年、ロンドンで結成されました。
1964年に発表されたデビュー1stシングル「She's Not There/邦題:シーズ・ノット・ゼア」は、UKで12位、USAで2位を記録する大ヒットに・・・。
ZombiesもBeatlesから始まったブリティッシュ・インヴェイジョンの波に乗ってアメリカに上陸。
1965年に発表した「Tell Her
No/邦題:テル・ハー・ノー」はUKでは42位だったがUSAでは6位を記録する大ヒットになりました。
1968年に発表したアルバム「Odessey & Oracle/邦題:オデッセイ・アンド・オラクル」はメロトロンを大幅に導入した意欲的な作品で、このアルバムから「Time of The Season/邦題:ふたりのシーズン」が大ヒットするんですが・・・・・、このときZombiesは大変なことになっていました。
このアルバムの制作途中からバンド内の人間関係が悪化していてね、アルバム完成と同時にバンドは解散してしまったんです。
ところが・・・・ところがです、当時米CBSのプロデューサーであったアル・クーパーがこのアルバムを聞いて惚れ込んでしまい、アメリカで「Time of The Season/邦題:ふたりのシーズン」をシングルカットし発表。
ナント、翌1969年にUSAで3位を記録する大ヒットに!!
しかし、Zombiesはこの時点では解散しており、この世に存在しないバンド。
それなのに、ぐんぐん人気が出、なんと偽物のZombiesまで出てしまったそうです。
メンバー達は再結成を促されるが、結局これを拒否。
僕らがラジオで聞いていた時点では、Zombiesは幻のバンドだったんですね・・・・。
で、1968年に発表したアルバム「Odessey&Oracle/邦題:オデッセイ・アンド・オラクル」は、名盤としても有名で、Beatlesの「Sgt. Pepper's~」、Beach Boysの「Pet Sounds」、Whoの「Tommy」とあわせて60年代の四大コンセプトアルバムと言われています。
「ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・ベストアルバム500」で100位にランクイン。
リーダーのロッド・アージェントはZombies解散後、1969年に自身の名前のArgentというバンドを結成。
現在では、Zombies再結成し活躍中とのことです。
ところで、Zombiesといえば日本のGS カーナビーツを忘れちゃ~いけませんよね!
Zombies が1965年に発表した「I Love You」を日本語でカバーした「好きさ、好きさ、好きさ」は、大ヒットしましたね。
思い出すな~・・・、アイ高野がドラム・スティックを突き出し「お前のすべてを!」と歌っていたのを・・・。
2015年
5月
24日
日
Beatlesから始まるブリティッシュ・インヴェイジョン。
瞬間風速ではありましたが、あのBeatlesをも抜いた唯一のバンドがHerman's Hermits。
Herman's Hermitsは、テレビの人気子役スターとして活躍していたPeter Noone(ピーター・ヌーン)が中心のポップ・グループ。
1964年から1966年にかけて本国イギリスはもちろんアメリカでの人気も半端じゃなかったんです。
1964年秋に発表されたデビュー1stシングル「朝からゴキゲン」がイギリスで大ヒットし、翌1965年、Beatlesに続いてアメリカに上陸。
この1965年のビルボード・トップ10の記録を見ると、2曲がNo.1に、3曲トップ10に入っています。
何故アメリカで人気獲得ができたかというと・・・、プロデューサーのミッキー・モスト曰く「Peter Nooneのアイドル的ルックスと、清潔感のある親しみやすいイメージで高い人気を得ることができた」し「何と言ってもPeter Nooneの顔が故ケネディに似ていたから」と分析していました。
キャッチーで覚えやすい楽曲、そしてボーカリストであるPeter Nooneの少年のように無邪気な歌声と茶目っ気があって親しみやすいキャラクター。
ティーンのハートを捉えるのに十分な魅力を兼ね備えていたんですね。
1966年には主演映画「ホールド・オン!」が封切られ、来日。
当時、星加ルミが「ミュージック・ライフ」でPeter Nooneのインタビューをしていたのを覚えています。
1967年に「見つめあう恋」が大ヒット。
この後に全米ツアーを開始するんですが・・・・、彼らの前座として出演したバンドに完全に食われてしまうんです・・・・。
その前座が・・・・The WHOだったんですから・・・・。
Herman's Hermitsの軽いポップスでは・・・・、そりゃ~、食われますよね!!
さらにHerman's Hermitsに追い討ちをかけるように、音楽も時代も様変わりしてきたんですね。
1966年ごろから各バンドが独自の音楽世界を追求し始めます。
社会もアメリカのベトナム戦争に対しての反戦運動から始まったフラワームーヴメント文化を産み、それに伴い音楽もLSDなどの薬物を使用し精神の内面を表現するサイケデリック・ミュージックが主流となっていきます。
Beatlesから始まるブリティッシュ・インヴェイジョンの波に乗り、全米のチャートを賑わせたHerman's Hermitsでしたが、音楽性と社会の波に呑み込まれ、次第に失墜していきます。
●Herman's Hermitsの代表曲
「CAN'T YOU HEAR MY HEART BEAT/邦題:ハートがドキドキ」/ビルボード2位。
「Mrs.BROWN YOU'RE GOT A LOVELY DAUGHTER/邦題:ミセス・ブラウンのお嬢さん」/ビルボード1位。
「SHILHOUETTES/邦題:シルエット」/ビルボード5位。
「WONDERFUL WORLD/邦題:ワンダフル・ワールド」/ビルボード4位。
「I'M HENRY Ⅷ, I AM/邦題:ヘンリー8世君」/ビルボード1位。
「JUST A LITTLE BIT BETTER/邦題:恋はハートで」7/ビルボード位。
「A MUST TO AVOID/邦題:あの娘にご用心」
など等・・・。
2015年
6月
07日
日
日本でのヒット曲は2曲しかないけど・・・、当時、結構好きなバンドの一つでした。
Honeycombsは、ロンドン出身のバンド。
ドラムとボーカル担当で紅一点のハニー・ラントリーとアメリカの野生牛・バイソンの角をイメージしたBurns のギターが特徴のバンド。
現在では、女性のロックは珍しくないけど、当時の日本人感覚からすると、女性がドラムを叩いているなんて・・・・、本当にビックリしたもんです。
また当時、見たことが無い珍しいギターの形とそのギターが出す金属的な音にはまってしまいました。
1964年、ジョー・ミーク(※1)のプロデュースによる「Have I The Right/ハヴ・アイ・ザ・ライト」が、イギリスで1位を獲得。
その他にカナダとオーストラリアで1位、オランダで2位、アメリカで5位、ドイツで21位と世界中で大ヒット。
その勢いで世界ツアーを実施し、1965年には日本にも来ていたようです。
帰国してから日本での思い出を歌った「ラヴ・イン・トーキョー」という曲をしているんですって・・・・。
しかし、1965年「That’s The Way/ザッツ・ザ・ウェイ」がイギリスで12位を記録して以後、ヒット曲に恵まれず、1967年2月3日、プロデューサーだったミークの猟銃自殺により、ハニーカムズは新曲のレコーディングを止め、解散したようです。
※ジョー・ミーク/JOE MEEK
イギリスの音楽プロデューサー。
1962年にThe Tornados(ザ・トルネイドース)の「テルスター」やJOHN LEYTONの「霧の中のジョニー/Johnny Remember Me」などを大ヒットさせた名プロデューサー。
イギリスのフィル・スペクターとも形容され世界中から注目されていましたが、1967年2月3日にショット・ガンで自らを撃ち抜き自殺。
この2月3日はバディ・ホリーの命日でもあります・・・・。
2015年
6月
15日
月
ある年齢以上の方にしか通じないジョークですが・・・、「バス ストップといえば平浩二」と言うぐらいに日本でも大ヒットしたHolliesの「Bus Stop」。
Holliesは、あのGraham Nash/グラハム・ナッシュが中心のグループ。
バンド名は、メンバーが好きだったBuddy Holly/バディ・ホリーから付けたと言われています。
1963年に発表された1stシングル「(Ain't That) Just Like Me」がUKで25位を記録。
3rdシングル「ステイ」が初のUKトップ10入りに。
翌64年1月に発売した1stアルバム「ステイ・ウィズ・ザ・ホリーズ」は、UK2位の大ヒットを記録。
イギリスでは順調にヒットを飛ばしていましたが、何故かブリティッシュ・インヴェイジョンの波に乗れず、一番遅咲きのグループとなってしまったのがHollies。
しかし、1966年に発表された12枚目のシングル「Bus Stop」がついにアメリカでも認められ、USAビルボード・シングルチャートで5位を記録し世界的な大ヒットに。
12弦アコースティック・ギターを使用したサウンドが、当時流行のフォーク・ロックとみなされたのが成功の要因とされています。
当然、日本でも大ヒット。
当時日本の洋楽状況はアメリカ経由で入ってくるので、この「Bus Stop」がHolliesが1stシングルだと思っていたので、「偉大なる1発屋」のグループ認識しかありませんでした。
でも、この曲が大好きでね・・・、学生時代にBEST盤購入し、「偉大なる1発屋」の認識は、日本だけだということを知りました。
66年10月発売の「Stop! Stop! Stop」がUKで2位、USAで7位を記録し世界での人気も不動のものとなりました。
しかし、次のアルバムで揉め、グラハム・ナッシュは1968年にHolliesを脱退。
その後、グラハム・ナッシュは訪米中に知り合ったByrdsのDavid Crosby/デビッド・クロスビー、Buffalo Springfield/バッファロー・スプリングフィールドのStephen Stills/スティーブン・スティルスと共にC・S・N/クロスビー、スティルス&ナッシュを結成したのは有名ですよね!!
一方のHolliesは、1969年にグラハム・ナッシュと揉めたアルバム「ホリーズ・シング・ディラン」を完成させ、 1968年に来日公演を果たしています。
Holliesは、1974年に「Air That I Breathe/邦題:安らぎの世界へ」が世界的ヒットを記録しますが、が、これが最後のヒット曲となり解散。
2010年、ロックの殿堂入りを果たしています。
余談ですが、冒頭の「バス ストップといえば平浩二」ですが・・・・・、平浩二のバスストップがリリースされたのはHollies「Bus Stop」の7年後なんですよ!
キャンディーズも「Bus
Stop」をカヴァーしているとか・・・・?
2015年
6月
23日
火
1962年、サリー州のウェイブリッジという街で結成されたNashville Teens。
日本では1曲、世界的には2曲の大ヒット曲をもつイギリスのグループ。
1964年発表のデビュー・シングル「Tobacco Road」は、UKで6位に、USAでも中ヒットを記録。
同1964年暮れに発表した2ndシングル「Google Eye」もUKトップ10ヒットを記録。
翌年公開の映画「トップ・ギア」にも出演。
通常、1曲でも世界的な大ヒット曲があれば、いろいろな種類の資料が残っているものですが、どういう訳か残念なことにこのバンドに関する資料はとても少ないんです。
Nashville Teensは、アメリカ黒人のブルースに影響を受けたロック/ブルース、R&Bを演奏。
2人の専任ボーカリストがツイン・ボーカルと鍵盤を叩きつけるような荒々しいピアノでR&Bサウンドを聴かせるバンドだったようです。
結成後の1963年には、当時のデビュー前のUKバンドの定番ともいえる、ドイツ・ハンブルクのスター・クラブでの巡業や現地でライブ・レコーディングを行ったジェリー・リー・ルイスのバック、ボ・ディドリーのツアーのサポート等で注目を浴びたようです。
その後、イギリス本国に戻りチャック・ベリーやカール・パ-キンスのバックバンドを勤めさらに脚光を浴びます。
そんなNashville Teensに目をつけたのが、アニマルズ、ハーマンズ・ハーミッツを育て上げたあの有名なミッキー・モスト。
ミッキー・モストは、1964年発表のデビュー曲と2ndシングル曲をヒットさせ、映画「トップ・ギア」にも出演させたのですが・・・・、ここからNashville Teensの悲劇が始まります。
当時のミッキー・モストは2大バンドを抱えて超多忙の毎日。
そのため、折角2曲の大ヒットを出したNashville Teensのプロモートまで手が回らず、2年目からはほとんどノン・プロモート状態。
マリアンヌ・フェイスフルとの競演シングルとなった「The Little Bird」を発表しますが、マリアンヌの方だけが大ヒット。
この曲日本でもヒットしましたよね!
ノン・プロモート状態でバンドは試行錯誤しながら頑張っていましたが、1969年サウンドの要ともいえるピアノのジョン・ホウクンが脱退し、事実上バンドは解散状態となってしまいましたそうです。
因みに、ピアノのジョン・ホウクンは、元Yardbirds/ヤードバーズのキース・レルフが結成したプログレ・バンド「Renaissance/ルネッサンス」に加入しています。
「Tobacco Road」は、元Van HalenのDavid Lee Roth がソロ・アルバム「 Eat 'Em And Smile」でカヴァーしています。
本当に実力あるバンドでもノン・プロモートじゃ売れないのですね!!
Nashville Teensを聞くたびに、何か淋しさを感じます・・・・。