★ 第4回 「総員玉砕せよ」 水木しげる 著
世の中には語り伝えていかなければならない事がある。
太平洋戦争~広島・長崎の被爆含め~もその一つ。
毎年8月になると新聞、雑誌、TVなどで戦争に関する報道が増えますが、あの呪わしい忌まわしい太平洋戦争を体験した人々も高齢者となり、日増しに戦争の悲惨さ・無意味さを語る人が減少しています。
近い将来、「戦争を知らない」人達だけになってしまうだろうけど、あの悲惨な戦争を風化させないためにも、戦争体験をいろいろな資料として残して置くべきであろう。
漫画の世界でもいろいろな作家が悲惨な戦争を書き残しています。
その一人に「ゲゲゲの鬼太郎」をはじめ多くの妖怪漫画の第一人者である「水木しげる」がいます。
今回は、妖怪漫画家としてではなく、自らニューギニアで体験した(片腕を無くしている)戦争を描いた水木しげるの戦争体験漫画~「総員玉砕せよ」をご紹介します。
「総員玉砕せよ」は、水木先生が昭和18年21歳で召集されニューギニアに送られ、そこでの過酷で悲惨な状況から奇跡の生還を果たした戦争体験漫画。
水木先生は、「ゲゲゲの鬼太郎」で脚光をあびている時、心の奥底では目の前で死んでいった戦友たちの無念をいつか作品化したいと思っていた、という。
そこで、46年冬、執筆で忙しい中、無理やりに休暇をとって、26年ぶりに赤道直下のニューギニアに行く。
このニューギニアの旅以降、「何者かに押される形」で自身の戦争体験を漫画に描き始め、昭和48年夏に発表した自伝戦記漫画が「総員玉砕せよ!」。
水木先生は、昭和18年21歳の時に召集され、ニューギニアのラバウルへ。
当時ニューギニアは連合軍に島の半分が占領されており、日本軍の敗色が濃厚となりつつ時代。
そこで水木二等兵は最前線の小隊に配属されるが、兵士たちは「玉砕」という命令に従い理不尽な死を余儀なくされ、生きる望みも許されない日々を送り、最終的に“聖ジョージ岬”への玉砕にむかう・・。
水木先生は、過酷な戦場を生き抜き、「玉砕」から奇跡の生還をし、日本に帰国できた数少ない人なのです。
水木先生談:
「やっぱり皆生きて帰るつもりで戦争に行ってますから、死ぬ事は限りなく無念です。
危険な状態になると無性に生きたくなる・・・そんな戦友たちを限りなく見てきました。
この「総員玉砕せよ!」は、何か目に見えない力が働いて自然に描けた。気がついたら描けた。
結局、そんな戦友たち皆の意思が働いたのかな・・・と思っています。戦記物を書くとわけのわからない怒りがこみ上げてきて仕方がない。
多分戦死者の霊がそうさせるのではないかと思います。
戦争という事実と生と死の狭間で「玉砕」を選ばざるをえなかった当時の兵士たちの痛恨の叫びが「「総員玉砕せよ!」になった。
●読んで欲しい戦争漫画
・中沢啓治 著 「はだしのゲン」
・ちばてつや 著 「紫電改のタカ」
●水木しげる略歴
1922年3月8日鳥取県境港市生まれ。
太平洋戦争時にラバウルで左腕を失う。1
946年に帰国し、ペンネームの由来にもなったアパート「水木荘」を経営するかたわら紙芝居を描き始める。
その後、貸本マンガ家に転向し、1957年単行本「ロケットマン」(兎月書房)でデビュー。
雑誌ガロ(青林堂)の中心作家として多くの作品を発表。
1966年「テレビくん」が第6回講談社児童まんが賞を受賞。
1968年「ゲゲゲの鬼太郎」のアニメ放映が開始、マンガ家として不動の地位を築く。
その他の代表作として「悪魔くん」「河童の三平」「総員玉砕せよ!」などがある。
1989年自伝的作品「昭和史」で第13回講談社漫画賞受賞
1996年第25回日本漫画家協会賞文部大臣賞受賞
1998年第37回児童文化功労賞受賞
2007年「のんのんばあとオレ」がフランス・アングレーム国際漫画祭で日本人初の最優秀作品賞受賞
数多くの賞を受賞し国内外で高い評価を得ている。
また妖怪研究家として世界妖怪協会会長、日本民俗学会会員、民族芸術学会評議委員などを歴任。
2003年、境港市に水木しげる記念館が開館した。
★水木しげるの奥さん 武良布枝 著 「ゲゲゲの女房」も面白いですよ!